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決して簡単ではない行政システム改革、 特許庁での経験から行政デジタル化を案じる

更新: 2020年8月1日

 「55億円無駄に、特許庁の失敗」--2012年12月、日経コンピュータがこう報じた。遡ること8年前の2004年、特許庁は当時の政府が打ち出した『業務・システム 最適化計画』に沿って、特許審査や原本管理といった基幹系システムの全面刷新に乗り出した。プロジェクトはしかし、要求定義の段階から進捗が滞り、2012年1月に外部監査機関である技術検証委員会が「開発終了時期が見通せない」とする報告書を公開するに至った。これを根拠に当時の枝野幸男経済産業大臣がプロジェクトの中止を正式に表明。実質55億円を投資したプロジェクトは破綻したのである。

 しかしながら知財戦略の根幹でもある特許庁の基幹システム刷新を放置したままにはできない。当時の技術検証委員の1人であり、後に日本初の政府CIOに就いた遠藤紘一氏は、リコーにおけるCIOを務めた経験などから特許庁のプロジェクト失敗の原因を分析。プロジェクトをマネジメントするための5つの指針を組み入れた『改定最適化計画』を2013年に公表し、特許庁はこれを基本としてプロジェクトを再スタートさせた。

その指針とは
① システム開発方式の見直しによる難易度の大幅な低減とリスクの最小化
② プロジェクト推進、監理体制の強化
③ 業務等についての徹底的な分析
④ 調達手順の改善
⑤ 外部監査体制の確立による客観性の確保
である。

 実は筆者は⑤に基づいて選任された技術検証委員の1人であり、委員長の大山永昭先生、小尾高史先生(共に東京工業大学)に加えて民間出身の委員としては他に菊川裕幸氏(JFEシステムズを経て現在は日本情報システムユーザー協会専務理事)、石野普之氏(リコーITソリューションズ)が選任されている。民間出身者3人に共通する考え方は「ベンダーなど外部に依存するのではなく、経営者やシステム部門がイニシアティブを持ってプロジェクトを推進すること」である。これは特許庁の最初のプロジェクトに欠けていた最も大きな課題であり、ことあるごとにギャップを埋めるべく検証委員会でのレベル合わせを図った。

 それもあって①に基づく「特許庁アーキテクチャ標準仕様」作りから始まった新しいプロジェクトは、本丸の基幹システムの要求・要件定義が順調に進み、現在では順次、システム開発とリリースが行われていて、プロジェクト完遂への道筋が出来たと言える状況である。そこで、ここでは技術検証委員の立場で見た成功要因、また特許庁のような官庁における大規模プロジェクトの課題について、考察したい。併せてコロナ禍で明らかになった行政システムの問題にも言及する。

成功要因:プロジェクトマネジメント

 2013年の『改定最適化計画』策定から7年以上が経過し、その間、特許庁長官は6名が変わった。それでも当初目指した目的や目標、目指すシステムの姿、最適化のロードマップはぶれていない。年4回程度の有識者レビュー(技術検証委員会)を実施し、また庁内でのいわゆるステアリングコミッティーを運営して、幹部と業務部門、システム部門間で目指す姿の共有・確認とフェーズ毎の課題解決を行ってきたのである。

 プロジェクトの規模が大きくなれば期間も長くなるため、3年から5年、あるいはそれ以上の中計レベルでの推進が必要である。そうなると人が変わるので、最初は大きな目標を掲げるものの尻つぼみで終わるプロジェクトが少なくない。特許庁の新プロジェクトではこの問題を排除した。一般企業で言えば社長と業務部門のトップを巻き込み、当初掲げた目的、目標と現状のギャップからテスト結果を踏まえた立上げのリスクまでをしっかりと共有し、庁内が一丸となって取り組んできた。それを見ながら筆者は自分自身の活動を振り返り、あらためて襟を正したほどである。

 「経営者がITを理解しない」は、CIOやIT部門の方からよく聞く言葉だが、ではIT部門は経営戦略や業務課題をどれだけ理解しているのか?経営者とIT専門家の会議体では、どちらかが(あるいはどちらもが)歩み寄らないと会話はかみ合わない。常に経営者目線、ユーザー目線での資料の提示や説明が欠かせない。実のところ特許庁は現業部門とIT部門の人材ローテーションが頻繁に行われる。これが奏功している面もあるが、意思疎通、情報共有の大事さは学ぶべきである。

成功要因:アーキテクチャの刷新

 旧システムは十数年をかけて業務毎に個別に、その時々の技術で構築してきた。よく言われる、”増改築を繰り返した古い旅館”のようなシステムそのものであり、何をするにも時間と費用がかかる問題が生じていた。新プロジェクトでは、業務要件定義と並行して「アーキテクチャ標準」を策定した。狙いは、環境変化への臨機応変な対応を可能にする、個々のプロジェクト失敗リスクを低減させる、先行プロジェクトで得た技術的ノウハウを後続プロジェクトに活かす、ベンダーロックインを避ける、などである。

 アーキテクチャ標準は、大きく次の3つを基本とした。
・ SOA(サービス指向アーキテクチャ)により業務アプリケーション同士を疎結合とする。
・ 個別システムの基盤機能とデータベースを分離。その上で共通データベースに集約する
・ 業務要件定義(BPMN)からシームレスな開発を行うため、BPMSツールを標準とする

 SOAは、筆者の所属先(カシオ計算機)が標準として取り入れていたため、特許庁のメンバーとカシオのスタッフが何度も会合を重ね、導入における課題を潰し込んでいった。大規模導入には敷居が高いと思われたBPMN(Business Process Model and Notation)やBPMS(Business Process Managment System)も、業務要件に応じて汎用的に適用できるツールを選択したことなどから、しっかりと実装までつなげている。

 褒めすぎかも知れないが、特許庁のIT部門は新しいシステム技術や構造をグローバル標準から学び、しっかりと自らのシステムに取り入れているのだ。再始動させたプロジェクトだけに”背水の陣”であり、同時に日本の技術を束ねる特許庁だからできたとも言えるが、多くのIT部門にとって、お手本となり得る活動である。特に「技術の目利き」が出来ることは、大規模システムの刷新には重要だと思う。

成功要因:業務の可視化

 ③に関わる「徹底的に業務を可視化せよ」は、遠藤紘一氏が最重要視した方針である。特許庁の業務は外部とのやり取りを含めてプロセスの要素が多い。そこでシステム開発の準備段階で対象となる全ての業務をBPMNで記述した。BPMNは業務部門が比較的書きやすく、階層構造となっているので部門間にまたがるプロセスの全体像から事務処理レベルの詳細なワークフローまで、業務を広範囲かつ体系的に可視化できる利点がある。

 加えてシステムを動かすためのプロセスの論理的なふるまい、データモデル、ビジネスルール、想定画面など、As-is(現状)を可視化した後に、システム開発時の要件定義にもつなげることができる。こうしたところから、BPMNの最大のメリットは業務部門とIT部門が互いのイメージを共有して要件定義を進めていくことができる点だと筆者は考えている。手戻りのリスクを大幅に軽減できるのだ。当然、システム調達を適正化するためにも非常に有効な手段である。

 とはいえBPMNを使った業務の可視化は、業務部門にとって膨大な工数がかかることも確かだ。幸いにして特許庁はそうではなかったが、システム刷新を自分の仕事ととらえていない業務部門から「忙しくてそんなことはやってられない」と抵抗に遭い、結果としてシステム部門がヒアリングをしながら要件を取りまとめるプロジェクトが少なくない。業務の可視化なくして、改善、改革などできるわけがない。そんな常識が通用しないプロジェクトの現場がどれだけ多いことか。

 事実、日経コンピュータが2018年に実施したITプロジェクトの実態調査によると「半数が失敗」という結果だった。10年前の2008年は「7割が失敗」だったので成功率は上昇したが、18年の失敗の最大要因は『要件定義』。これに対し08年のそれは『テストが不十分、移行作業に問題、追加開発』であり、中身が異なる。要件定義につながる「徹底的に業務を可視化せよ」という方針は、官民にかかわらずプロジェクトの最大の鍵であると言えよう。

政府システムのデジタル化について

 この7月8日、政府は経済財政運営の指針となる「経済財政運営と改革の基本方針(骨太の方針)」の原案をまとめた。新型コロナウイルスの感染拡大に伴う支援策がオンライン手続きの混乱などで遅れたことを踏まえ、今後1年を行政のデジタル化に向けた「集中改革期間」と位置付けている。7月15日には、さらに踏み込んで①IT基本法を全面改定する、②今後3年間を集中投資期間とし、原則としてシステム基盤を一括調達し、各府省がこの基盤に移行する、③今後5年で地方公共団体のシステムも基盤統合を進める、と宣言した。

 こうした方針や宣言が必要であることに異論はない。しかし特許庁ではプロジェクトの失敗から立て直しをはかり、あるべき姿を描いて8年間地道に歩む中でようやく成功への道筋が見えてきたことも事実である。どんなにITが進歩しようと、その前提となる業務やシステムの構造、プロジェクトマネジメントなどを包含した成功の道筋は変わるものではないだろう。1年でデジタル化に向けた改革を実施する、3年で各府省のシステムを移行するといった宣言が行政のトップから出された時点で、プロジェクトの行く末を案じる次第である。

カシオ計算機
シニアオフィサー
生産・サプライチェーン改革 担当
矢澤 篤志