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若かりし頃、スイスの修行で得たもの~感謝の念をこめて!

更新: 2021年1月1日

 1984年1月某日、30歳になったばかりの筆者はスイスのバーゼル空港に降り立った。当時勤めていた製薬会社の本社のあるスイスに、仕事をマスターするための修行に赴任したのである。スイスといえば、風光明媚なアルプス連山とハイジの里、チーズフォンデュやラクレット、緑の平原で草を食む牛たち、観光や永世中立国といった平和な情景をイメージする方が多いと思う。筆者も、そんな印象を持っていた。

 ところが2年間の修行が始まると、すぐにイメージとは逆の顔を知った。スイスは当時、ヨーロッパ全体の27%の資産を保有しており、金融と製薬・化学・食品が主産業である。世界的に知られるスイス銀行をはじめとするスイスの金融機関が世界のカネの流れを下支えし、加えて世界で10位以内の売り上げを誇る製薬企業が3社もスイスに、それもバーゼルに本社を構えていた。

 人口わずか数百万人という小さな国スイスの大手企業は、当時からグローバルのマーケットで確固たる地位を築き上げ、事業を展開していたのである。また、小さいとはいえ最新式装備で固められた軍隊も保有し、スイス企業の幹部の一部は軍人の上層部が兼務することを知った時には、さすがに驚いた。

修行の日々のはじまり

 さて、スイスでの勤務が始まって周りを見渡すと、働いているのはスイス人だけではなく、ドイツ人、フランス人、イタリア人、イギリス人といったヨーロッパ各国の人達だった。バーゼルはフランスおよびドイツと隣接するスイス国境の都市であり、したがってフランスやドイツの国境付近の地域はバーゼルへの通勤圏である。他のヨーロッパの主要国へもクルマで2~3時間しかかからない。そんな地理的な利点もあり、バーゼルには各国から優秀な人材が集まっていた。

 当然、社内ではドイツ語、フランス語、イタリア語が飛び交う。公用語は英語とはいえ、筆者は日本で働いているときと違った言葉と文化の洗礼を受けた。幸い、当時のスイスでは日本人はまだ大変珍しい存在だったので、周囲の人たちは大変親切に多くのことを教えてくれた。おかげで、案外早く新しい環境に慣れ、本格的に修行をスタートすることができたと思う。

頭がパンクするほど考えた2年間の日々

 肝心の修行の内容は何か?簡単に言えば、経営委員会に対して設備投資プロジェクトの提案書を答申し、承認を得ることだった。つまり設備投資のプロジェクトマネージャ見習いである。製薬企業であるから、その案件は当然、医薬品の生産工場の設備投資プロジェクトがほとんどであった。

 昔からスイス人は大変な節約家で、無駄なことには一切お金を使わない、買ったものは大切にして、使えなくなるまで決して新しいものを買わない。「もったいない」の精神が生活の基本というわけだが、これが個人にとどまらないところがある。会社で数億円、数十億円を超える設備投資の可否を判断するうえでもそのまま生きていた。「損をしない」だけではなく、「儲かる」プロジェクトに磨き上げた提案以外は経営委員会から絶対に承認してもらえないのである。

 筆者としては、世界各国の子会社から送られてくる投資提案書を熟読して投資効果、いわゆるROIを最大にするにはどんなビジネスケースがあるかを考える毎日。そして経営委員会への答申用の提案書をゼロから起こしていく。子会社から送られてきた提案書は数百ページもあったが、それでも足りない情報が多く、テレックスやファクシミリで現地と頻繁にコミュニケーションをとる。

 日々、頭がパンクしそうになるくらい考えた。当時はインターネットもe-Mailもない。国際電話は高すぎて特別の場合しか使えないので、コミュニケーションの方法にもいろいろ工夫をしながら情報を入手しなければならなかった。その後スイス本社の専門家の意見を仰ぎ、サポートのコメントを書面で取り付ける。最終的に、膨大な情報を10ページほどに要約し、投資効果の経済的キーフィギュアを添えて経営委員会に答申するといった流れである。

 ここで大切なのは、キーフィギュアだけでなくその元となるビジネスケースであることはいうまでもない。ビジネスケースは生産性向上、ビジネスプロセスの抜本的改革、合理化や、時には現行プロセスを廃棄してしまうといった、様々な内容から考えだす必要があった。膨大な情報を、前述した10ページほどに要約する作業は苦労の連続であったことを思い出す。

 修行の間にやっとの思いでアメリカ、ヨーロッパ、南米、アフリカ、日本でのそれぞれの設備投資プロジェクトの承認を得ることができ、同時に企業経営の設備投資における意思決定プロセスを会得することができた。なんとか無事に修行を終えることができたのである。

若い時の経験、知見を後進に伝えていく

 その後、月日は流れ、筆者は日本法人のCIOとして新たな職務のスタートを切った。ITの組織を立ち上げ、ビジネス部門とともに多くのIT投資を行った。ITの進化が投資の追い風となり、多くのプロジェクトを立ち上げ完了することができた。システム開発はもちろん、データマネジメントや人材開発なども含め、すべてのプロジェクトにおいて、CFOや経営企画部門から全面的な支援を得ることができたからである。

 支援を得られたのは若い時の修行での経験、つまり「ビジネスケース」を考え「投資効果」を最大化する徹底的な訓練を受けたことがベースになっている。170年の歴史を持つスイスの老舗の経営ノウハウを勉強してこいといって送り出してくれた当時の日本の上司、スイスでの修行で筆者を鍛えてくれた本社の上司や同僚のことを思うと、いまさらながら感謝の気持ちがこみあげてくる。

 しかし感謝するだけでは不十分だ。最近、ITやデジタルの分野では特にビジネスケースに基づいた投資効果の評価があいまいになりがちであり、そのため有効な投資への意思決定ができないという事例をよく耳にする。これに対して、スイスでの修行経験から得たこと、CIOの職務を通じて会得したことを、特にこの分野で活躍したいと望んでいる若い人たちに伝えていくことが筆者の使命だろう。そう心得て、これからも取り組んでいきたいと思っている。

アドバイザー
沼 英明