cio賢人倶楽部 ご挨拶

オピニオン

僕たちの進化を阻んでいるのは、たぶん僕たち自身だろう

更新: 2023年1月1日

 みなさま、新年あけましておめでとうございます。新年を迎えたからといっても時の流れが途切れるわけではないのですが、こういう節目に頭の中や行動を改めて整えておくのは、私はとても好きです。この場をお借りし、新年に向けて考えたいことなどを書き連ねさせていただきたいと思います。

物語
 何かを説明するときや将来構想を語るとき、「物語」や「ストーリー」が大切と言われる。それらがあることで具体的なイメージを抱かせ、理解を深めさせることができる。一方、「イメージする」「わかりやすい」というのは危険である。なぜか。一度、人の頭の中につくられたイメージは、その後に壊すのが難しいからだ。

 「わかりやすい」というのは、実はわかりやすい方向から見ているだけで、対象のすべてを表しているとは限らない。現実は極めて複雑で、さまざまな要因が絡まり、時とともに変化する。自身も時を経て変化している。要は、今「なんとなくわかった気になっているだけ」なのかも知れないのだ。

 「因果の物語」にも注意が必要である。これは過去の事実がプロセスを経て今につながり、将来こうなるという思考パターンであり、因果があると人はなんとなく安心する。納得感と言ってもよい。とはいえ一人の人間の頭でカバーできる情報量はたかが知れている。要するに、因果とは「今を、都合よく『過去というメガネ』で、その人が見たいように見ているだけ」かも知れない。

にわたま
 「鶏が先か、卵が先か」という問いがある。これは「因果律のジレンマ」の代表例だが、鶏と卵の場合は、この二者に限定して考えてしまって思考停止に陥りがちだ。そこで、視野を広げ様々な知見を取り入れてみてはどうだろう。

 鶏はニワトリという生物種だが、卵はニワトリ以外の鳥類も産む。ニワトリに近い種の鳥類が時間をかけて徐々に変化(進化)することでニワトリになるとも考えられる。つまり「卵が先にあり、卵から生まれる鳥類が長い時間かけニワトリに進化した」というのが、「鶏が先か、卵が先か」の答えになる。鶏と卵という二者の狭い視野から、「進化」という生物学の知識を加味して視野を広げたことで問題が解決する。

 ビジネスも同じだろう。狭い視野で物事を捉えると、いつまでも解決策を導き出せない。挙げ句の果てに、考えることをやめてしまうという最悪の事態に陥る。答えや本質は、実は自らの視野の外に存在しているかも知れない。

摩擦
 人が乗って快適と感じる車の開発は、タイヤとその接地面との間のせめぎ合いと教えてくれた人がいた。滑らかで乗り心地を良くするため、技術者たちはタイヤが地面から拾うロードノイズや振動を抑える研究を重ねる。言ってみれば、地面から受ける「ストレス」、つまり「摩擦」をいかに小さくするかということである。

 どのような素材のゴムを使えばよいか、複数の素材の配合割合をどうするか、タイヤの溝の形状をどうすべきか、タイヤの扁平率はどの程度が適切か、さらにはホイールの形状や素材はどうかなど無数の条件を組み合わせ、摩擦をいかに減らすか考える。

 しかし減らすと言っても、ゼロにすると問題が生じる。地面との摩擦がないと、タイヤは接地面でスリップしてしまうので、車は前に進まない。「摩擦」をうまく利用してこそ、車を快適に走らせることができる。だから「摩擦」をコントロールする。そして心地よい「摩擦」を追求する。これが実は自然の摂理かも知れない。

遍在
 少し前に「ユビキタス」という言葉が流行し、「ユビキタスコンピューティング」のように使われた。日本語に訳せば「遍在」。さまざまなところに存在する、いつでもどこでもその恩恵を受けることができる、などという意味だ。最近はこの言葉を聞かないが、その概念は世の中に深く静かに根を張っている。

 クラウドコンピューティングや5Gなどが本格化し、IoTやスマホはもはやもはや当たり前。当たり前となれば、人々の口に上らなくなるのは当然だ。しかし、だからこそ我々は、意識しなければならないだろう。もし何らかの事故やトラブルが生じたら、遍在しているだけに影響は半端ではない。

多様性
 多様性(ダイバーシティ)を考えるとき、「何が違うか」という差異に注目しがちだ。仮に多様性の議論で「同質性が重要」と言うと、「同質の集まりは多様ではない」との指摘を受ける。ところが差異と同時に、「何が同じか」に着目しないと多様性の本質を見失う。例えば人間は姿形・体質・性格など極めて多様だが、ゲノム配列のおよそ99.9%は同じ。多様性が認識される差異を生み出しているのは、残り0.1%に過ぎない。

 企業や組織における多様性も同じだ。多様性を作ることが企業や組織の目的ではない。まず、ある目的を達成したいという「同質性」を持つものが集まる。その上で様々な視点を取り入れたり、将来の環境変化に対応するために多様性を確保する。これが本来の多様性の在り方だと思う。

 話は逸れるが、社会は様々な考え方の人から成り立っている。各々の考えを尊重するのが大事なのは言うまでもない。だからと言って、たとえば「核兵器を使って戦争しても問題ない」という考え方は違う。それを許容することが多様性ではない。

空間、立体、三次元
 現実の世の中が三次元であることは誰もが知っている。しかし頭の中で物事を考えるとき、その思考の次元を狭めてしまっていることがある。狭い範囲で判断するからいびつな答えが出る。しかも一度得た答えを頑なに守ろうとし、さらにいびつさに拍車がかかる。

 「VR/AR」という技術がある。VR=仮想現実、AR=拡張現実だ。最近では「メタバース」も含まれる。この話になると、すぐあのイケてないデザインの、頭に巻くVRゴーグルが目に浮かぶ。アレは恰好悪いし、アレを着けた人がその仮想世界に没入しているのをはた目に見ると、気持ち悪い。そんな感想を持って遠ざけてしまう。

 ただ世界を立体的に可視化する技術は、人間の感覚に対して大きなインパクトを伴い、今後大きな意識変革につながっていく。そしてコンピュータ自体も物理的に見えず、存在も忘れられる。いや、すでにそういう世界観もある。そんな空間認識が当たり前になれば、人にとって「バーチャル」「リアル」というすみわけ自体が無意味となる。

賢人
 最初、自ら「賢人」と呼ぶとは、「またずいぶん奢った人たちだ」と感じた。言わずもがな、CIO賢人倶楽部のことである。その後「賢人」という言葉を調べるに、最初の印象から少し変わった。もちろん「知恵があり、行ないのすぐれている人」「賢明な人」という意味はある。

 同時に「でしゃばって世話を焼く人」「利口ぶる人」という意味もある。さらに聖人=清酒に対し、賢人=濁り酒という意味もあるそうだ。もろみを濾過しきらず、米粒や麹が未糖化のまま残り、酵母が活発に働いて発酵状態にある活性清酒と呼ばれる「濁り酒」とは、なかなか面白い。

自由
 なんでもかんでも「自由」に選択していい、決めていいとなると、意外に何もできなくなる。何が正しいか、何が将来において得かなどと考え始めると、途方に暮れさえする。「決めない自由」があっていいじゃないかと、開き直りたくなる。

 何もかも「自由」で「自己責任」というのはつらい。つらいからこそ人は宗教に傾倒することがある。さんざん考え、考え抜いて、最後の最後に、遍在する神が命令し、決断し、許してくれる。それで人は救われる。そんなことが現実にあるかもしれない。

時間
 「時間」は、人間の経験や記憶や認知によって成り立つ。重要なのは時間が流れる向き、すなわち「時間の順序」である。それは人間の経験などから成り立つから、いつでもどこでも同じように時間が経過するわけでなく、必ずしも過去から未来へと流れるわけでもない。この世の中は、物でなく出来事の集まり。世の中を出来事の集まりと見做すことで、よりよく把握でき、理解でき、記述することができる。さらに私たちは、物理的には存在しない「時間」を感じることができる。

結局
 「今をしっかり生きる」に行きつく。生きるための「目的」や「ゴール」が存在するわけではない。わかりやすくプロセスを認識するため、あるいは限界のある人間の頭を落ち着かせるため、節目としての「ゴール」を設定し「目的」を定める。過去も現在も未来もない。「生きよう」と思っているこの瞬間に「生」が立ち上がる。きわめて直感的。そしてそれが真理。私は今この瞬間、生きているからこそ生きている。

それでは皆様、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

ふくおかフィナンシャルグループ 
IT統括部 部長
島本 栄光